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らき☆すたは普通に面白いっての

らき☆すた第16話「リング」について<Danimation>

上記の記事をめぐってらき☆すた論争が再燃してるみたいですね。色々反応も出ているようなのでそちらはどこが面白いの? 『らき☆すた』論争(?)まとめ<うらやま。>の方でも見てください。件のサイトでは16話の感想の前に12話の感想も書いてますのでそちらの方から見ていくと

らき☆すたが女子高生の日常を描いたものであるという言い方をするのは虚偽である。なぜならオタクでない女子高生が日常的にネトゲとかギャルゲーなどと話すということはないからである。
これに対しては次のような反論があるかもしれない。いわく、らき☆すたは"オタクな女子高生の日常"を描いた作品なのだ、と。だが、このような言い方をするのも適当でない。
らき☆すたという作品は確かにオタクに観られることを前提としている。それは作品内に数多あるパロディや前提知識を必要とする内容の存在からわかることである。しかし、ともすればそのことはオタク以外の視聴者を蚊帳の外においてしまう結果を導く。いやしくも、らき☆すたという作品は(深夜とはいえ)テレビというメディア媒体で放送されているのであるから、その点をおろそかにせず考慮に入れねばならない。

と書いていますがこの時点で結構疑問な点が多い。別に女子高生がネトゲの話をするのは有るんじゃないの?男ってオタクジャンルにはまると芋ずる式に他のオタジャンルにも手を出すけど女の場合ゲームだけやる人、アニメは見る人、何故か漫画だけは読む人とか居て、あくまでも立ち位置は一般人なんだけどこのジャンルだけはかじってますよーって人がそれなりに居るみたいだから。あとはラグナロクとか結構普通の女性がプレイしてるらしいし広義のネトゲとしてモバゲーとか一般人ばかりなんじゃないの?結局の所会話にするかしないかの分岐点は一般人/オタクじゃなくて話が通じる、話を面白がってくれる相手が居るか否かだと思う。
次にオタク以外の視聴者を蚊帳の外においといていいのか?という点に関して、「そこまで気にする事か?」というのが僕の答え。だって野球漫画・アニメで一からルールの説明するか?しないでしょ。野球のルールなんて知っていて当たり前とか言わないように!女性なら知らない可能性高いですよ。サッカーのオフサイドとかも男でも知らない人多いしね。野球のルールを知らない人が野球を題材にした作品を見て絶対に楽しめないという確証は無い。むしろそこを入り口にして新しい楽しみを発見するんじゃないの?それをOVAでやれっててのはかなり乱暴。ガンダムシリーズを全く知らんかった腐女子はWとかSEEDを楽しめませんでしたか?いいえ、楽しみました。魔法少女を題材にした作品を見る場合事前に昭和世代の魔女っ子と平成の主だったシリーズ(CCさくらとかどれみとか)を予習しておかなければいけませんか?いいえ、事前に見ておけばより一層楽しめる可能性はありますが必ずしも必要ではありません。TVアニメーションの大衆性は90年代後半からすでに失われています。限られた層への作品はTVアニメーションにして流すべきでないというのはまさに全時代的な考えだと思います。以上の事を持ってらき☆すたを非難する際に上記のような理由を持ち出すのは的が外れている。この点に関して反論記事で
しかしながら、この場面でわたくしが論じておるのは、「オタクたちに閉じられている"から"らき☆すたはいいんだ」という主張に対する否定的見解でありますので、「元ネタを知っていなくても楽しめる」旨のご主張に対するわたくしの見解はまた別の次元で論じられるべきものと存じます。
と書いてますが嫌な言い方をすればそれはその人達が「勝手に主張してるだけ」の長所であり「根拠」は無い。別にらき☆すたがオタクだけに閉じられた作品とは思わないし閉じられているからこそ面白いとも思わない。

ところで、どうもanimation(だけではないのだが)を語るときに、メディアの違いというものを考慮事項からはずすという空気が蔓延しているように思える。らき☆すたも原作つきの作品であるが、例えばコマとコマの間に断絶のあるメディアである漫画と、音(声)・動画(しかも実写と異なり"絵"である)のあるanimationというものは、表現方法の時点で自ずから差異があるのであり、その点を全く峻別して作品内容を評価することは不可能であろう。

この部分については逆にこちらから「リアルとフィクション(ノンフィクションでもいいけど何かの作品として作られた物)というメディアの違いが分かっていない」と言いたい。現実に起きればくだらないけど作品内だと妙に面白くなったり、男がやるとむかつくけど女がやると面白い、くだらないネタでも面白いとされている人(お笑い芸能人とか)がやると面白く見える、お笑い芸能人のネタを普段つまらない人が真似しても何故か面白く見える、等の再生環境による「クオリティーの増減あるいは保持性」を考慮から外し、ネタが小学生並み=喜んでいる人の思考も小学生並みという理論は全然ダメなんじゃないの?必ずしも「何が」が主体とは限らない「何時」「何処で」「誰が」の方が遥かにに重要な場合だってある。素材が悪ければ必ず最低の料理になるとは限らない。
他にも、例えば犬や猫の生活なんてレベルの高い事なんて基本的に1個も無いよ、だらだら寝てるだけとか。そんな犬猫の生活を見て喜んでる人間は全員思考停止ですか。ペット飼ってる人は全て芸を仕込んで高みを目指さなきゃいかんのですか。ただゴロゴロしてる猫に1週間ぐらいで飽きないといけないんですか?アニメじゃなきゃ、作品じゃなきゃ思考停止はアリですか?小学生レベルの会話楽しんじゃいけないですか?レベルが低いって言うのはいいけどアニメーションというジャンルの中に存在する事自体を否定されるのは横暴すぎないか。これは本当に送信側の問題なのか?受信側の問題ではないのか?作品に対する最後の料理人は何時だって受け手だよ、あなたはちゃんと料理したのか?

ようやく16話の感想に話を移して

さて、らき☆すた肯定論にはいくつか類型がある。それは、1.らき☆すたはいわゆる「祭り」であることに肯定の根拠を見出すもの、2.らき☆すたは(例えば)ニコニコ動画といった媒体の存在を前提としており、そこに訴えかけていることに肯定の根拠を見出すもの、3.らき☆すたは現状を皮肉っているところによさがあるとするもの、である

との事です。まぁこの3パターンは分かるけどそれだけでもない。1の祭に関して周りの意見に流されずにニュートラルに作品を評価していると自負するような(実際はどうか知らんが)人の場合この祭は分かるけど自分の感情として「実感」は出来ないと思う。
2のニコニコ動画前提ってのも後追い認定じゃない?作る前から意識してたかというと微妙な気がするなぁ。
3の皮肉、皮肉かなぁ?僕は3つとも当てはまらない「4.なんだか分からんけど面白いよ派」とでもしておこうか。
最近の僕のツボポイントは春休みに柊家に遊びに来たこなたとつかさが縁側で「最近暖かくなってきたよね~」「そだね~」って会話してる所です。なんだか妙に面白い。こなたの問いに対してつかさが「そうだね」という4文字の短い答えをわざわざ1文字省略して「そだね」と答える所が妙に面白い。分かるか?この気持ち。たった1文字有るか無いかだけで面白がれるんだぜ。こなたがオタクであるかどうかとかパロディーの有無とかすっ飛ばして面白がれるんだ。人間の可能性をなめちゃいけない。この思いを簡単に否定されてたまるかっての。理屈で説明したいってのは分かるけどなんでも説明できると思ったり説明できない物に価値が無いと思うのは早計だ。高度に発達した感受性は思考停止と区別が付かないだけなんだYO!今はまだ解明されてないけどいずれ誰かが名前をつけて「それは~である」とかブログに書いてくれるよ、たぶん。

柊かがみはコンプティークをなんの抵抗もなく手に取ったし、「コンプ」と呼称しているし、もはや完全に一般人という虚偽は通用しなくなってしまったといえよう。第一、一般人の女子高生がメイド喫茶(?)にいったりするのであろうか。女子高校生の何%がかがみと同じ体験をしているかデータがほしいところである。

上にも述べたように、かがみが一般人の範疇である可能性はまだ捨てきれない。どこからが一般人でどこからがオタクであるかの線引きなど誰にも出来ないのにそこにこだわって「虚偽」と称するのは何の利益も無い。さらに下の注には「日常という虚偽」という言葉も有るけどじゃあどこからが日常でどこからが非日常なのか?それ決めないと作品を作る事も楽しむ事もしてはいけないの?「日常」ってのは大雑把にカテゴライズするために使ってるだけで非日常と混ざっていたらいけないなんて決まりは無いし8割当てはまるんだったら8割の正解、2割の不正解という扱いをするべきだ。それを0%完全な不正解のように扱うのはずるい。日常ってのは何故それを描くのか選ぶ必要性が必ずしも無いからこそ日常なんじゃないのかなぁ。選別基準がはっきりしていればレベルが上がる事も有るでしょうがはっきりしてないとダメって言う時点でそりゃ「作られた日常」でしょ(そりゃ作ってるけどね)。理由無く描いてはいけない事は無い。そんな確信に満ちた作品なんてそうそう無いでしょ。

第2クールも後半に差し掛かった段階でいまだに"あるあるネタ"メインに話が展開していく様は、なんというか物語のメリハリがないというか、(人間関係の)情報量が増えていないというか、下手をすると「第2話以降話が進んでいないんじゃないの?」と思ってしまいます

必ず物語のメリハリが無いといけないとか話が進まないといけないという根拠を説明してください。指摘はもっともだと僕も思いますので個人的感想として否定するのは結構ですがこういう作品はアニメ全体のために否定すべきであるという論調はいかがな物か。進展が無い事をもって人間関係がテーマではないとするのも個人的には違うと思いますが。「距離感の変わらない人間関係」を描くというのもアリなんではないでしょうか。というか普通一度固まった人間関係はそれほど動かないですよ。動く理由がある時に動くだけ。

悪い人ではないと思うんだけどとにかく才能の無駄遣い。自分の推す作品を褒める方向に使った方が何倍も為になると思う。レベルの低い作品を排除すれば受け手のレベルが上がるかっていったら多分違うと思う。それは英語が苦手なら日本語を禁止してしまえば全員英語完璧になるよねって言ってる様な物だ。英語を母国語とする国の人が英語のテストで必ず100点取れはしないでしょ?国語が苦手な日本人が居るように自動的にレベルなんて上がらないんだから。良い作品の何処がどう良いかが分かればおのずと悪い作品の何処がどう悪いかも分かるけど、その逆はたぶん難しいんだよ。

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コメント

よくこんなくだらないことでこんな長文を書けるもんだ。

投稿: ふく | 2007/08/14 04:14

論争の火種になった方は、典型的な
「正統派物語支持者」のようですね。
「らき☆すた」に“物語的展開”って、あーたw
初めから求めるものが間違っているような気がします。

犬猫のたとえ話は、別の方がブログで語っておられた
「癒しの感覚」の事に通じるものかも知れませんね。
もちろん、まったり癒されるだけでなく「あるある」ネタ
(それは日常ネタ・オタクネタ双方)で笑ったり
同意したり、時にはバカな暴走であきれたり、と
いった感覚も含めて「キャラクターが生き生きと
生活する様子」を、ただ眺める楽しみみたいなものですか。
否定派の方には「それは単なるキャラ萌え」と
いう事になるのでしょうが、そういう作品もあっても
いいと思います。

絵画に例えれば、風景画や静物画、デザイン画のような
方向性の作品なのかもしれません。
絵画に明確で統一されたテーマ性やドラマ性、
強い主張・インパクトを求める人にとっては
退屈でつまらないくせに絵柄や売り方だけが派手で
鼻に付く作品に見えるかもしれませんが
そういったものを眺めて楽しむ人もまたいると言う事です。

投稿: 通りすがり | 2007/08/14 15:57

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