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SEEDデスティニーとふたご姫

溜まったビデオを消化中「ふしぎ星のふたご姫」第9話「宝石の国☆おもちゃの町においでよ」→「ガンダムSEED DESTINY」第32話「ステラ」の流れで見たんだけどこの時どうしようもなくデスティニーは駄目だと思った。
前回主人公・シンの意中の人ステラが連合の巨大新型機デストロイに乗り、プラントに協力的な欧州の町を数ヶ所壊滅させる。それを止めるために戦うキラ・アークエンジェル軍とシン・ミネルヴァ隊。シンの声が届き自分を取り戻したステラ、丸く収まるかと思った矢先フリーダムに対する恐怖に駆られ再び攻撃しようとするステラ・デストロイ。結局デストロイを止めるためのキラ・フリーダムの攻撃によりステラはシンの腕の中で息絶える。いくつもの街を潰し、国を巻き込み、人々を殺し傷付けた結果、ステラとシンというたった二人の幸せすら描けなかったデスティニーという作品に如何程の価値があるというのだろうか。
一方でふたご姫の話、人形の街の外れにある棄てられた人形のスラム街で旧式の人形達と遊ぶファインとレイン。日も暮れて二人は帰ろうとするが執拗に留めようとする人形達。人間に棄てられた過去の有る人形達は久しぶりの人間であるファイン・レインに再び棄てられるのを極端に恐れていたのだ。プロミネンスの力で解決しようとする二人、その結果、昔仕方なく人形を棄てた元持ち主等が現れ「あの時はごめん、また一緒に居よう」と言う。たったこれだけで人形は幸福にたどり着いた。
嵐のように何千、何万という数の夢と人生を食い荒らし何も結果の残せないSEEDデスティニーとたった一言二言で最大限の結果を生み出したふたご姫。デスティニーという作品全体とふたご姫のこの1話だけを比較してもふたご姫のこの1エピソードの方が尊いように思えて仕方が無い。「皮肉」という表現法が有る、世の中の無常に翻弄される人々を描き現実の悲しさ儚さを表現する形態だ。だが、皮肉と言うのは堅実にしっかりと描いた土台の上にあってこそ儚さを演出する。デスティニーにはそれが出来てないから違和感が残る。「皮肉」まで昇華されずただの「しこり」として残るだけ。今まで何かデスティニーに対し妙な感じがすると思っていたがその正体がこれだったのだ。主人公は幸せになるべきである、戦って生き残った者は幸せになるべきである、傷付いた者達もいつか癒される時が来るであろう事を示唆されるべきである。今のところシン達の周りに幸せの予兆は無い。そんなガンダムSEED DESTINYに対し僕ははっきりとNOだと言いたい。
やっぱり僕はハッピーエンド厨です。

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